「北山大好きやから。」
屈託ない笑顔で話すのは、
小西逸子さん。
大沼の老舗旅館北山館の
3代目の尾崎正司さんの
お姉さんです。
正司さんは9
年前に亡くなり、
北山館は閉館したものの、
その趣ある旅館のたたずまいは、
北山館が見つめてきた
北山村の歴史を私たちに
感じさせてくれます。
尾崎5人兄弟しっかり者の長女として
逸子さんは尾崎家5人姉弟の一番上で、
両親と弟1人と妹3人を支えました。
(自分以外の兄弟)4人が東京に行った。
弟と、妹3人東京。
今は妹3人東京。
私だけ残った。
私は北山大好きやから、
どこも行かなんだ(いかなかった)。
北山ともかく大好き。
60年前に下尾井に嫁いだものの、
実家の北山館を
いつも気にかけていました。
ずっと次々父親がお金出して
直すのもずっと見てる。
父親が倒れるまで
ようこっち(下尾井へ)きても、
結婚して60年余りで、
21で来たんやから。
父は次から次へと。
お金はいったら次はこれと。
昔は5人も
高校入れるってなると
大変やったで。
父はよっぽど教育熱心で、
みんなをいれてくれたんですよ。
父親は稼いだら旅館への設備投資、
そして子供たちへの教育に
惜しみなくお金を使ったそうです。
昔の北山川
逸子さんは川遊びが大好きで、
ダム建設が進む前のかつての
北山川を懐かしんでいました。
ダムができてから変わってったんよね。
河原がなくなって、
北山川でも今のと前のとちゃうもんね。
向かいもこっちも
岸がいっぱいあって、岩ね。
向かいも大井川ですよね。
ずーっときれいな花咲いて。
サツキ。自然はやっぱりよかったね。
大井川まで泳いだよ。
みんなで。
川泳ぎ大好きで、
こっちのブチ飛び込んで深いとこ、
向こうへ着いた。
いくら深あても、
底はある程度見えた。
途中に岩があるから
真ん中の岩にすがって休憩して、
また次出発。
7,8人で。
ともかく夏は
川良くいきました。
繁栄する北山館
新宮の大橋あるでしょ?
大橋の下ずっと河原でね、
あの辺ずっとホテルやったわ、
旅館。
新宮の相筋らも川やったね。
旅館なっとって。
そこに泊まって筏師さんが。
また帰ってくるんよね。
ともかく郵便局の
下ずーっときれいな川でね、
自然で、筏師さんがいっぱいおるし、
お客さんもいっぱい筏下りして。
私ら子供の時から。
どえらい繁盛したね。
旅館もとっても忙しかった。
北山川が有名やったから。
12年生まれやから、
小学校のとき筏師さんの家へ、
組合長さんがいたもんで
「明日筏下りが10人、20人」
とかいってたね。
今の北山川観光筏下りが
始まるずいぶん前、
ダム開発が始まる前から
北山川では現役の筏師が
お客さんを乗せていました。
当時はダムになる前だったため、
瀬がとても美しく、
北山川そのものが景勝地と
なっていました。
筏で旅館が忙しかった。
観光客がバスできて、
西山(三重県熊野市)から
ずーっと乗ってきて、
えらいわね。
旅館で夕飯食べて泊まって、
次の日筏で新宮まで。
長いわね。
現在の筏下りは
北山村小松が
ゴールですが、
当時は新宮まで下ったそう。
住み込み(で働く人)が多かった。
泊って全部してくれた、
女の人が。
戦時中は食糧難やからね、
住み込みみんな好きやった。
ご飯食べられるし。
よそから、
木本や飛鳥からも来て。
とにかく忙しかったね。
家族だけでなく、
女中さんも雇いながらの商売でした。
北山館の名物~鰻や鮎、イノシシ~
料理は地元のご飯。
鮎・鰻がメインでね。
あ、イノシシもしたね。
うちのじいさん、
猟師専門で、
小さい時はイノシシとってね、
一匹裏でつってた。
写真撮ったり。
イノシシの料理は多いかった。
私もこどもらのとき、
いつも猪たべた。
すきやきやね。
ほんとの混ざりのないイノシシやもんね。
山のもの食べて、
美味しいわね。
イノシシが多いかった。
どえらい好きかして、
上手やったわ。
あんなのよく食べたけどね。
鮎やウナギがいっぱいつれたからね、
漁師さんに
「おじさん鮎何匹、鰻何匹頂戴」って
専門の人がおったんですよ。
(私は)北山館で助手した。
火起こしとか。
鰻を持っといて、
頭からさばくのを手伝ったり。
焼くときはいつも
私火を当てててつどおた。
鮎と鰻は毎日お膳につきましたね、
自然の鮎とうなぎがね。
私ほとんど手伝おたね。
鮎でもなんでも。
鰻のたれやっぱり夜作るでしょ、
みんな夜かえって、
父親がたくのをてつどおて。
秘密やから。
たれが独特ね。
「北山館といえば、鰻!」と、
今でも村民誰もが口をそろえるほどです。
今となっては羨ましいくらいの
贅沢なお料理です。
山の恵みを生かした料理で泊まるお客さんを歓迎しました。
意外なお客さん
北山川のダム開発が進むと、
お客さんの層が変わっていきました。
弟の代になると、
ダムの人来ました。
電源開発もよく来てくれとった。
団体でね。
松茸いっぱいとってきてね。
電発の人もね。
旅館にいたら、夜いっぱいあってね、
「もってったらいいよ、いっちゃん」
って。
お客さんあげるあげるって]
もろたことある。
転勤した人も、松茸取りに来る。
ダムの作業員をはじめ、
かつてあったコバルト鉱山の
鉱員も宿泊していたといいます。
あの時はコバルド鉱山もしとったからね、
雨谷のほうになるんかな?
四ノ川の。
昔はあそこ鉱山しとったんですよ。
鉱員さんも大勢来て、
朝鮮の人も大勢来て、
来た時だけうちに泊まってくれて、
朝鮮やから言葉が
もうぜんぜんわからなんだ。
一晩は旅館泊まって、
ある程度あちこちプレハブたてて、
鉱山の方におったからね。
昔は賑やか。
北山館と筏師
北山村の代表的な職業と言えば筏師で、
大沼は村内で一番筏師が
住んだ地区でした。
筏師の祭りがある2月、
北山館も大変繁盛しました。
筏師の祭りは大沼の対岸にある
不動神社で行われ、
祭りの日は大沼から神社へ渡れるように
筏師が筏を並べて橋のように
していました。
当時の不動の祭りは大変なにぎわいで、
出店も相当数あったんだとか。
当時のにぎわいを振り返りました。
北山館は泊り客が多かった。
ともかく出店するのにね]
不動様(不動神社のこと)で、
大変なお客。
出店してた人が泊まる。
博打やってね。
その人でね、
朝までやりやった。
よそから皆きて、
すんごい人やったもんね。
夜はよっぴと(大変)
おそまで博打したね。
子供心にわかっとった。
すごい店やった。
いくつも店だしてね。
店屋さんがよっぴど(とてもたくさん)
旅館で泊まって。
準備して。
なんでか知らんけどよう売れたね。
不動産は2月の寒い時やけど、
筏の橋渡しの楽しみやった。
今はせんけど。
筏師さん作ってくれたんやろうね
100年以上も北山村を見守る北山館
今もひっそりと北山村を見守る北山館。
中は少し正司さんが改装したといいます。
コーヒー売るのには最高やね。
食器も凝ったのがあって、
弟も凝り性やから、
自分がコーヒー大好きで東京で
毎日コーヒー飲んでたから、
コーヒー店するっていって。
そのまま使えるのにね。
今は静かな北山館ですが、
耳を澄ませると当時の
にぎわいが聞こえてくるような、
そんな気がします。
その重厚なたたずまいは、
どこまで北山村を見守ってくれるのでしょうか。
聞き手(香月・里中)